横山やすし。 横山やすしと竹垣悟(五仁會)は義兄弟だった 盃をする2人の画像

横山やすしの子供(娘)はひかりで何人?息子の現在と事件?

横山やすし

昭和最後の芸人の死 平成8年 1996 1月、大阪摂津市。 ある一人の男が、自宅で短くも太く濃い波乱の人生に幕を閉じました。 彼は死の前夜酒を飲み、長年の深酒に肝臓が悲鳴を上げたアルコール性肝硬変でした。 「あんた、これ以上飲んだら死ぬで」 と医者に通告されていた中の深酒。 ほぼ自殺そのものでした。 その男の名は 横山やすし。 本名は木村雄二。 非常にクセのあった、しかしどこか愛された、空前絶後の破滅型芸人でした。 昭和に生き、戦後昭和に彗星の如くあらわれ、そのピークを笑いで支え、そして昭和の終わりを見届けつつ消えていった芸人、横山やすし。 彼の人生もまた昭和史として取り上げるべき材料でしょう。 あの時、あなたはヒーローだった 昭和60年代以降生まれの人には、西川きよしを知っていても、横山やすしという名前を聞いたことがないかもしれません。 「やすしきよし」 (以下「やすきよ」)という漫才も、聞いたことすらないかもしれません。 しかし、昭和40年代以前生まれの、特に関西に生まれた人は、「やすきよ」は絶頂を極めた漫才コンビとして記憶に強く残っているはず。 そして、漫才100年の歴史上最強のコンビとして、現在でも伝説として語り継がれています。 かく言う私も、「やすきよ」の漫才をリアルタイムで見ていた世代です。 まだ幼かったので思想や哲学が入り込むことはなかったのですが、この年になり振り返ると、あれは漫才ではなく、「漫才という名の歴史の一部」を見ていたのだなと。 「やすきよ」とは何か-漫才史最強のコンビ ここで、「やすきよ」について説明しておく必要があります。 「そんなん知っとるわい」 という方は、簡単に流してもらうだけで結構です。 「やすきよ」は、天才漫才師と呼ばれながら泣かず飛ばすだった「横山やすし」と、新喜劇の役者ながら目が出なかった「西川きよし」との漫才コンビでした。 昭和41年にデビューした彼らは、瞬く間に漫才界のスター街道を爆走、漫才師として頂点を極めます。 ブレーキが壊れたスポーツカーやすしに、生真面目一筋のトラックきよしという凸凹コンビのやりとりが客にウケました。 トヨタのハイブリッドカーのキャッチフレーズに、 HYBRID SYNERGY DRIVE という言葉があります。 これは電気とガソリンという、全く異なる2つのものが相互作用し、別のものを生み出すというニュアンスがあります。 「やすきよ」の漫才はこの漫才版。 やすし・きよしという真逆の性格の人間がシナジーを起こし、笑いというエネルギーを発生させた HYBRID SYNERGY MANZAI だったと、リアルタイムで見た人間として感じます。 当時の吉本興業の芸人は、野球に例えて エースの 桂三枝(現6代桂文枝)、 キャッチャー笑福亭仁鶴。 代打の切り札月亭可朝。 そして、 3番4番がやすしきよしと表現されていました。 彼らは当時の吉本の稼ぎ頭で、テレビのチャンネルをひねれば誰かが画面に出ている、テレビに出ない日はないというほど大人気でした。 今の吉本なら、エースは明石家さんま、3番4番はダウンタウンの二人、キャッチャーは…さて誰やろ?といったとこでしょうかね。 島田紳助がいれば、間違いなく彼のポジションだったのですが。 やすしのトラブル第一号ときよしの成長 しかし、人気絶頂だった昭和45年 1970 、やすしは無免許運転の上、タクシー運転手に暴行を加えるトラブルを起こし、執行猶予付きの有罪判決を受けます。 執行猶予期間(2年)の間やすしは芸能活動を自粛、「やすきよ」もこれまでかと解散の危機を迎えました。 やすし謹慎中の間、きよしはがむしゃらに働きました。 いや、働かざるを得ませんでした。 それは何故か。 やすしを待つということもありましたが、本人いわく月賦(ローン)で家電から家まで購入し、返済期間も「いつでもいいよ」と借りたお金が、やすしの自粛と「やすきよ」コンビ解散の噂が立つやいなや、手のひら変えて返済を迫ってきたそうです。 現実的な理由ですが、これは一家の長として働かざるをえない。 しかし、これがとんだ怪我の功名となります。 数年後、自粛期間が終了しコンビ復活となったのですが、「やすきよ」の本領はここからでした。 デビュー当初の「やすきよ」は、天才やすしが漫才ド素人のきよしを引っ張っていくスタイルでした。 漫才はふつう、 「ボケ担当」 「ツッコミ担当」と役割が固定されています。 ボケ担当がツッコミをすることは、あまりありません。 しかし、「やすきよ」はそれが変幻自在。 やすしがボケたかと思ったら、数秒後にきよしがボケる。 このボケ・ツッコミが瞬時に入れ替わるのが「やすきよ」漫才の真骨頂であり、我々はそんな「やすきよ」漫才をずっと見てきました。 これは実はやすし謹慎明け後のスタイル。 「鈍カメ」がパワーアップし、「天才ウサギ」について行けるようになったからこそ出来た芸だったのです。 ガンダムに例えると、ニュータイプ横山やすしのオールレンジ攻撃に全く歯が立たなかったジムのパイロット候補生西川きよしが、努力を重ねた末、やすしのファンネルをやすやすとかわせるようになったという感じでしょう。 彼らは1980年代の漫才ブームの波にも乗り、名実ともに日本一の漫才師となりました。 これが、 「やすきよ」の第二次絶頂期。 この時の収入は 年5億円以上… 月給7000万の時もあったそうです。 私がテレビで「やすきよ」の漫才を見ては大笑いしていたのは、この頃でした。 やすしの放漫ときよしの決別 順風満帆に見えたこの凸凹コンビも、やはり凸凹だけにいったん亀裂が入ると止まりません。 やすしはこの頃から趣味のモーターボートにのめりこみ、仕事も空ける(サボる)ようになります。 「俺は趣味 (モーターボート)のために仕事 (漫才師)やっとんや」 という発言まで飛び出し、芸人にしてはあまりに真面目かつ現実的なきよしは危機感を抱きます。 そして1986年、 きよしは参議院議員選挙に出馬を表明。 知名度抜群の彼はダントツの投票数を得てトップ当選を果たします。 この時、やすしは相方を「裏切り者!」とテレビで罵倒していましたが、それには理由があります。 きよしは政界進出のことを、相方の前に吉本興業に相談していました。 次に家族。 やすしの優先順位はその下でした。 社会人としては至って筋が通っているのですが、社会のルールなどへったくれの、生粋の芸人やすしには知ったことではありません。 「なんで真っ先にワシに相談せーへんかったんや!相方であるワシにいちばん相談せなあかんのとちゃうんか!!」 やすしには、それが腹立たしくてたまらなかったのです。 やすしの師匠でもある故横山ノックも先に政界に進出しており、師匠と相方、どちらも自分から離れていった…その寂しさを紛らわすため、酒の量が増えていきました。 やっさんと親しい人や元マネージャーも、あれがやすしの歯車を狂わせたと述べています。 だからといって、きよしを責めるのは筋違いだと私は思います。 文が長くなってしまうので省略しますが、ただ言えるのは、もし私がきよしの立場だったら、彼と同じ道を取るだろうなと。 きよしの政界進出で、「やすきよ」は活動休止状態となりました。

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赤塚不二夫に横山やすし…「アルコール依存症」の悲しき末路(SmartFLASH)

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 によるの参照が不十分です。 ください。 ( 2018年9月)• に基づく疑問が提出されています。 ( 2007年7月)• 曖昧な記述になっています。 163(本人談)。 愛称は「 やっさん」。 とのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「 漫才」として20世紀を代表する漫才師と呼ばれるまでになった。 初妻(のちに離婚)との間にの(長男)と長女 をもうけた。 再婚した妻とはやすしの芸能界引退等を挟み、逝去まで連れ添った。 で漫才師の(次女)は、後妻との子である。 来歴・生涯 [ ] 芸能界入りまで [ ] 弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た一座の団員との間にとして生まれる。 を引き受けたのは、映画『』モデルとして一躍脚光を浴びた伝説の駐在、(第1回吉川英治賞文化賞受賞)の初仕事だったという説もあるが、やすし生誕の1944年(昭和19年)は中で荒木はまだ産婆学校入学前であり、保健婦免許取得後の荒木の着任が1948年であることから誤りである。 生後3か月で当時高知に疎開していた木村家に入りし、(現:)に育つ。 中学2年生の時、同年代の子がの歌合戦で合格したことが刺激となり、同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)を誘っての『』()に出演するようになった。 同番組初出演は(昭和33年)1月21日。 元々漫才などしたことなかった木村少年だったが、この番組で才能を発揮、元来勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、出場したことを契機に漫才師になることを決意した。 生まれて始めてのネタは「僕は」という老易者を題材にしたものだった。 同番組プロデューサーのによるとコンビの芸風は「木村が一方的にまくし立て、相方はいつもオタオタしていた」というものであった。 中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。 では漫才を披露し、同級生からも拍手喝さいを浴びた。 芸能界入り 秋田實に弟子入り [ ] 、卒業後、木村と岡田は少年漫才師として、揃って松竹新演芸(現在の)に入社。 漫才作家の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、秋田の弟子・によって 「堺伸スケ・正スケ」と命名される。 同年5月11日にでデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生! 」と書きたてた。 ネタは学校の話題を振っていたためあまり受けず、やすしは後に著書『やすしの人生一直線』において「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」、「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」と述解している。 横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ [ ] 堺伸スケ・正スケは角座デビュー後2年経った 、相方の正スケの廃業に伴い解散。 見兼ねたから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠であるの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。 師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。 この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。 今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。 ノックから新しい相方(後の)を世話されるが、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はでの展示場のを作り、夜はでを使ったを行い、生活費を稼いだという。 この頃はで他人の会話を聞いてノート(ネタ帳)に書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成・解散を繰り返すことになった。 周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身にも迷いが生じ、廃業寸前まで追い詰められた。 当時の相方は、年上だが弟弟子の、(何れも芸名は『』)など。 やすきよ結成時 [ ] 西川きよしとに「」のコンビ名でデビューする。 きっかけは歌謡浪曲師のがきよしを紹介したことだった。 やすしはの向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。 きよしは当時はまだ扱いだったを辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇のの壇上茂が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったりと、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。 しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。 結成当初はコンビ仲が悪かった。 やすしは「解散や!!! 」と怒鳴り散らしてその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし、残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本()との身分違いの結婚・寿引退をさせたきよしと、コンビ解散を繰り返すやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局2人は思いとどまる。 その時にきよしの発した「今後も小さなことからコツコツとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグとなった。 2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。 やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、またきよしがを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。 それならばと2人は、動きがおもろい「どつき漫才」を目指すようになり、そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、また、し、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。 やすしがどつかれて飛んだを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。 また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才 」の基礎となった。 稽古嫌いだったやすしがきよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。 「やすきよ」はこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回の新人賞を獲得。 これを契機に出演も果たした。 同じく動きで笑いをとるネタを主体とするとテレビで同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。 その後またので同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」、ときよしに思いついた秘策を告げた。 それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでを味方につけたという。 この流れをもって(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を、結成わずか5年にして受賞した。 そんな絶頂の最中、(昭和44年)に養父・庄吉がのので通過した電車の風圧で転倒、頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。 10日後に長男のが誕生。 やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。 翌年12月に最初の事件となる、運転手に対する傷害と事件の影響で、長期謹慎を受ける。 傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官にの提示を求められ、「俺、やねん」と『 グアムで国際免許を取ろう! 』と書かれたを見せただけで、肝心の免許証に関しては、答えに窮した結果無免許が発覚した。 やすしが謹慎の間に相方のきよしはとしての腕を急成長させ、さらにとしての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。 次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会、でやすしという組み合わせになることも多くなった。 (昭和48年)の春にテレビ復帰を果たすが、同年に最初の妻と離婚。 (昭和52年)4月に乗車したタクシーの運転手と口論になり、「お前ら、今でこそと呼ばれとるが、昔で言えばかきやないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手からで告訴された。 としてはで不起訴になったが、後のでは10万円の支払いを命じた。 (昭和50年)3月に3歳年下の木村啓子(〈20年〉、により61歳で死去)と再婚し、堺市ので挙式した。 はノックである。 啓子も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。 啓子はやすしを「雄ちゃん」と呼んでいた。 には24時間テレビでらと共に初代司会を務め健在ぶりを見せた。 (昭和55年)10月19日、やすしにとっては第三子(次女)となる光が誕生。 やすしもその時、その喜びを色紙に書いた。 西川きよしの参議院選出馬 [ ] の秋から、『』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発したことで問題になった(暴言の内容は冤罪に関しての『疑われる奴の自業自得や』だった)。 またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発し、まったくしゃべらなかったこともある。 そして11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開けたため降板。 吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。 にきよしがに出馬し当選。 コンビの仕事が出来なくなったやすしは酒の量が増え、趣味にのめりこむようになった。 やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。 実際に「きよしは当選すると思うか? 」と質問を受けた時に「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。 コンビ解散の噂については終始否定していたが、当選直後の対談番組でもきよしが「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい」と語ったのに対し、やすしは「俺は他人のために漫才はせえへんよ」と不機嫌な表情で応対していた。 その一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。 やがて後述する度重なる不祥事とトラブルのために、やすしの芸人・タレントとしての価値は下落して行った。 この件に関しては「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた。 また当時のマネージャーだった(旧姓:松岡)は「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」と述べている [ ]。 度重なる不祥事と契約解除 [ ] 1986年4月に不摂生からし緊急入院。 退院会見で二度と飲酒しないとしていたが、翌1987年12月に『』(制作・系)で酒気帯びのまま出演し、同じ司会の、の制止を振り切ってゲストのらに食ってかかった。 見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。 これがとどめをさす形で番組を降板する。 さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『』()の出演を直前にキャンセルしたために降板。 1988年11月下旬、長男・がタクシー運転手に対する傷害事件を起こしてされ、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。 やすしは当初事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「 おい、ねぇちゃん! 俺は息子には厳しく教育してるぞ」「 男は喧嘩する位が丁度ええ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え(しかも被害者は一八を乗車拒否した者とは別人で、理由も一八が止まったタクシーへ全くお門違いな八つ当たりをしたためだった)、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「 いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。 スンマヘン」「 自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任をすべて負う形で自ら無期限謹慎を申し出る。 会見の直後に、に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったという。 3月芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『』(制作 系)に復帰後初のゲスト出演をする。 きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。 (これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。 この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。 1989年4月17日にはコンビとして「」での二府四県対抗なんでもコンテストの司会を務めるも、その2日後の1989年4月17日、酒気帯び運転によりバイクとの人身事故を起こし、相手の男性(58歳)に軽傷を負わせた。 事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「決して、わざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」と語っていたが、その知らせを受けた吉本興業は、ついにやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。 事実上の 通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と嗚咽しながら話した。 当時、吉本の制作部長でマネジメント契約の解除を言い渡したは報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか? 」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。 これ以上騒ぎを起こされたらうちとしても会社の姿勢も疑われますから」と語った。 契約解除は(当時・副社長)・(当時・専務)・木村が話し合って決め、それを会長のに決断を仰いだところ、「もうええ、もうよろし! 」との一言であっさり決定したという。 契約解除の通知書を発行したのも林裕章であった。 吉本から契約解除を通告された10日後に木村から「お話したいことがありますんで、会社まで来てください」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。 「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。 林正之助は当日体調不良で出社していなかったため、やすしは林正之助に詫びることが出来なかった。 やす・きよのコンビはやすしの契約解除以降、事実上解消状態となった。 当時、中田明成に対し「漫才なんか誰とでもできるわい! 」と息巻く反面、「やっぱり俺にはキー坊(西川きよし)しかおらへん」と語っていたという。 吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。 後にやすしは、苦労を掛け続けた啓子夫人への感謝の思いを込めて、自ら作詞した「一ッ星」という歌を贈っている。 芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか [ ] に主演の映画『』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。 漫才を演じているときと何ら変わりない演技を見せ、活動の場をなどに移す。 この同作品の発売当時のビデオパッケージには「 横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、きよしら吉本所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや前述の契約解除の影響で不可能になっていた。 その後、学歴詐称によって参議院議員選挙の当選を無効とされ、芸能界からも干されたタレント・()と漫才コンビを組んだこともあった。 同年、のにが代表を務め、などが関与する「風の会」から立候補するも落選、からはのコラム「ブラックアングル」で「虱(シラミ)の会」と揶揄された。 落選の際に発言した「 国民が、アホや! 」は当時流行語となり、あちこちでパロディー化された。 また記者が「(では)誰に投票したか? 」と質問したところ、自身は比例区の候補者で大阪府選挙区では立候補していないのにもかかわらず「そんなもん『横山やすし』に決まっとる! 」と答えていた。 しかし親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。 まず間違いなくきよしに一票を投じたはずである」と口を揃える。 なおこの選挙ではきよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。 その後、謎の暴行事件で重傷を負い、に緊急入院した。 犯人も襲われた理由も不明で、すでにが成立しており「」となっている。 落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後にが語ったところによると、浮気相手の人妻にやすしが酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている。 この暴行事件でやすしは一時となり表舞台から姿を消す形となったが、後に回復し復活を果たした。 晩年 [ ] 、のの自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。 やすしが「これからは夫婦で漫才をして行きたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。 会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。 大村はその後、やすしの葬儀で記者の問いに「生前は応援せず今になって」と怒りをぶつけたが、「大村崑が吉本に爆弾発言」との大村の思いとは別の記事になる。 会には、きよしや桂三枝(現・)などの旧知の芸人も招待していたが、当時の社長だった中邨秀雄が吉本に所属する芸人や社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていたため、彼らは出席出来なかった。 にはでの太鼓まつりのとして姿を見せていたが、実年齢に似つかわしくないのように老け込んだ風貌で、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。 さらにその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、と即興漫才を披露。 これが最後の公の姿になった。 本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福團治に声をかけたという。 また、死去の3ヶ月前には、前述の通りやすしが唯一のアマチュアボートレーサーとしての弟子として教育や指導をし、野中と同じくやすしの勧めでボートレーサーとなった佐野からも連絡があり、互いに電話で競艇の話題をしたが、これがやすしと佐野との間の最後の会話であった。 死去 [ ] の夜、の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。 51歳没。 死去前日、大量にを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。 病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体はにあるでされた。 解剖の結果、死因は「アルコール性」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。 亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。 やすしはに吐血した際、医師から「による重度の」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが、一切無視して酒を飲み続け、1994年頃からが溜まるなど体調が徐々に悪化していった。 奇しくも前述の医師の『警告』通りに10年後の1996年にこの世を去る結果となり、関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。 若手時代、やすしを師匠のように敬愛した 「雲の上にいるような人だった。 やすしさんには芸も色気も敵わない。 もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。 若手のころ、かわいがられていた シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしのことを思い出して嗚咽し、観客もほぼ全員がもらい泣きしながらやすしの死を偲んだ。 やすしの相方・西川きよしの弟子・ ラジオ番組にて「やすきよ漫才は、僕にとってのだった」。 彼が死去してから12年後の、啓子夫人もで死去。 享年61。 最後の別れ [ ] 大阪府の千里会館で行われた葬儀・告別式では、多くの芸能関係者やファン総勢2000人以上が参列した。 亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていたという。 以下の人物がそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。 西川きよし(元相方) 「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休み、頼むわ」• 横山ノック(師匠で、当時の大阪府知事『山田勇』名義で参列) 「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子ほど、かわいいというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」と、師弟愛を物語るコメントを述べた。 親友代表の 「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(で)走ろう! その時は古いエンジンも持って来たる! 出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!! 」「やっさんありがとう!! 」と声が上がり、最後のお別れをした。 その後亡骸は吹田市立やすらぎ苑でに付された。 同年、故人の遺志により愛艇を置いたにて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部がされた。 は大阪府の「南大阪霊園」にあり、墓石の横に、やすしが吹き込んだ「俺は浪花の漫才師」のジャケット写真と、歌詞の一部が刻まれた石碑が建っている。 は「満寶院釋雄師」。 死去を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。 没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行った。 ギャグ [ ]• 怒るでしかし! (しまいに)• かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う。 由来はまったく不明。 発音としては、かわりべったかわりべった)• きよし「お嫌いですか? 」やすし「お好きです〜」• 正味の話• ションベンばぁチビリますたい! スポンサーにベンチャラ! どないやっちゅう? 横山や! マンマンちゃん、あんッ! (「マンマンちゃん」とは関西地方の方言で仏様のこと、転じて仏壇にお祈りする行為を指す。 あんッ!は「あな尊し」が崩れた言葉。 どちらかというとギャグではなく、昭和末期頃までは関西で広く使われていた言葉や習慣である。 幼児語の傾向がある。 メガネ、メガネ・・・(眼鏡を探す時に言う)• 持っとけ弟子! (と言って上着を舞台袖に投げる。 大抵投げ返される) 出演番組 [ ] やすしきよしとしての出演番組 [ ]• ()- 初期のみ出演、後に西川きよし単独司会に。 (毎日放送)• (毎日放送)• (毎日放送)- やすしはと司会を担当。 きよしはレギュラーメンバー。 (毎日放送)• (毎日放送)• (朝日放送)• (朝日放送)- 初期のみ出演、後にときよしの司会に。 (朝日放送)• (朝日放送)• 爆笑寄席()• (関西テレビ)• (関西テレビ)• お茶の間寄席()• (フジテレビ)• ()- 後にきよしが参議院選挙出馬のため降板、がきよしの後任を務め、やすし1人で出演していたが、後に降板。 (よみうりテレビ)• やすきよのどっちが本物? (テレビ大阪)• (日本テレビ)• (日本テレビ)• (日本テレビ)- きよしは司会、やすしはレギュラー回答者。 (テレビ朝日)• やすきよのラッキートゥナイト(MBS制作 文化放送へネット) やすし単独の出演番組 [ ]• (日本テレビ)• (朝日放送)• (テレビ朝日)• (関西テレビ、初代編集長役。 初回は顔出し出演したが、2回目以降は声のみ)• (テレビ東京)• やすし・大助花子の夫婦ゲンカ買います(朝日放送)• やすし・朝丸のほかほかテレビ(関西テレビ)• (毎日放送テレビ)• やすしの漫才教室(読売テレビ)• (テレビ朝日)• (テレビ朝日)• やっさんの1800秒ぶっちぎり ほか 映画 [ ] 太字は主演。 (1973)• 1981年 - 声優として、アントニオJr. 役で出演• 1983年 - 芸能人風のシャレ男役• (1983年版) - ダーク荒巻役• - 黒岩鉄夫役 木村一八も生徒役で出演。 エンディングのスタッフロールのバックに流れていた映像は愛機・月光号の飛行シーン。 - 矢吹麻子の父親の友人、金造役 萬田銀次郎の師匠、先生である。 フライング 飛翔 1988年 、=東映クラシックフィルム - ・・。 横山やすしの役として。 1992年 - ヨコヤマ役 テレビドラマ [ ]• (朝日放送) - 安雲斎 役• (関西テレビ・東阪企画) - 詐欺師・小宮一平 役• 「勝手にしやがれ」殺人事件(TBS)• 第41話「猫があわくってチュー! の巻」(1982年、フジテレビ系) - 猫田総務部長 役• 第2シリーズ 第2話(1985年4月、TBS系) - 居作新太郎 役• 第1シリーズ 第1話「密告者は美人靴みがき」(1988年4月、テレビ朝日系・東映) - ゲスト出演 テレビCM [ ]• (声のみ)• (パソピアIQ)息子のと共演。 - ラッキー• キリン・シーグラム(現:) -• - コクヨロングランデスク・くるくるメカ• (現:JRグループ) - トクトクきっぷ「切符はやすし、国鉄へきよし」のフレーズ。 (現:)キャッチコピーは「横山とちゃいまっせ、立山でっせ」• ・ - 「水虫薬 スコーピオ」• 株式会社 - かるいたくんスーパー(過去の漫才の映像を使用、セリフはアテレコ) レコード・CD [ ]• 俺は浪花の漫才師(1973年、ローオンレコード)• 人生はタタカイやで(1983年、) - 「」イメージソング)• 俺は浪花の漫才師(再録音盤。 1996年、日本クラウン) - 本来は1988年12月に発売予定だったが、息子一八の暴行事件が前月に起こったため、やすしの自主的な申し出により発売中止となった。 やすしの死後に追悼盤で発売。 一ツ星(1996年、日本クラウン) - やすしの死後に追悼盤で発売。 弟子・付き人 [ ] 直弟子 [ ]• (ただし、たかしは3代目。 (付き人。 ただし芸人としての弟子ではない) 孫弟子 [ ]• (たかしの弟子。 に所属現在等に出演)• (たかし・ひろしの門下から門下へ移籍。 和光プロダクション・・所属)• 横山まさみ(ひろしの弟子。 ・・所属。 相方は浮世亭とんぼ。 原田竜介(、ひろしの弟子) 逸話 [ ] 短気な性格とスパルタ教育 [ ] 短気で怒りっぽい性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったりする行動がしばしば見受けられた。 生涯に20数人の弟子を取っていたが、弟子に対してスパルタ育成であったことは有名で、ほんの一瞬でもミスをした場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門するなどのスパルタ育成ぶりだった。 こうした育成方法に批判の声もあった。 弟子に厳しい背景としてはの門下時代、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方まで厳しく教わり、ノック門下時代も要領良く仕事をこなし、漫画トリオ時代の、にも気配りをしており、ノックや上岡、青芝からも絶賛を受けた事、やすし自身が細かい事と些細な事にこだわる粘着質であるからとされる。 スパルタ教育に対しては、「厳しすぎる」、「他人には厳しいが自分には甘い」(例:弟子の遅刻には激怒する一方、自身も公演などで遅刻することが多く、相方のきよしを激怒させていた)などと批判する者もいる。 弟子として競艇選手の(やすしの勧めで競艇選手になる。 中でもひとしは最後の弟子であり、弟子修行に最後まで残った唯一の人物である。 たかし・ひろしは弟子入りした当初は吉本に所属していたが、あまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、が弟分として引き取る形で、松竹芸能へと円満移籍した。 1994年初夏頃、ひろし宅に電話で「もしもし横山やすしだが、ひろし頑張りや。 うん、よう見てるで。 一着取りや。 」と16秒の留守電メッセージが入っていた。 しかしそれとは裏腹にかつては「どこにおるんじゃ! ワレ殺すぞ」といった過激な肉声メッセージがあったことや、ひろしがやすしと電話で会話していて「はいそうですね」と数回言うと「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか!? 」と怒鳴られたという。 最後の破滅型天才芸人 [ ] 人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、八方破れな生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。 木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんなことがあってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なが要求されるんやないですか。 もし今もタレント活動を続けていたら、おもろい奴で終わっていたと思いますよ」と語り、「シビアに言いますが、横山さんはすでに全盛期を過ぎていた。 あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったら、クビにならんかったと思いますよ」と、心境を語った。 関西の破滅型天才芸人としては戦前のと並ぶ定型的存在となり、現在 [ ]まで語られ続けることとなった。 その点に関して木村は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。 ある意味何らかで天才やったと言える」と述べていた。 桁外れの金遣いの荒さ [ ] 全盛期の年収は5億円以上あったが(横山たかしが内弟子時代に月収7,000万円の月があったと証言 [ ])、初代桂春団治とのように金遣いも荒かった。 、購入などで借金が膨らみ 、差し押さえを受けたこともあった。 セスナ機には娘のひかりにちなんで「月光号」と名付け、頭金の5,000円を払ったのみでさんざん乗り回し、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで落ちたるねん。 要するに空飛ぶやがな」と自慢げに話し、周囲の報道陣を大爆笑させたが、そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放すことになり、『』(系)にゲスト出演した時、公開オークションに掛けたりもした(そこで売れたか他で売れたかは不明) [ ]。 島田洋七が、セスナに乗せてもらった時のこととして「『忙しいなか、よく免許を取りましたね』言うたら、『免許? そんなもんあるかいな!』て 笑 」と述べている。 金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからとされる。 家族へは月30万円しか入れていなかったという。 その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いたときでも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい! 」と叫んでいたという話もあるなど、やすしというキャラクターを守るため、普段でも舞台と同じキャラクターを作っていた節がある。 他の芸能人と [ ] 若手芸人との確執 出身者などの弟子経験のない芸人をよく思っておらず、各々の芸人が思い思いに付ける芸名やコンビ名もやすしにとっては『芸名・コンビ名は師匠がつけてくれるありがたい物』という認識があったため良く思わなかった。 かつてコンビ名を持っていなかったもその内の一組で、『』()に出演した際、家庭内暴力を題材にし「そいつの家燃やした」・「わら人形でも作って釘打った」などと不謹慎な内容を含んだネタであったため、「笑いの中に良質なものと悪質な笑いがある。 あんたら二人は悪質な笑いやで」、「テレビ出るような漫才ちゃうで」と酷評した。 さらに当時名乗っていたコンビ名「ライト兄弟」についても「航空ファンにも迷惑かける」と笑いを取りつつも批判していた(ただしこのコンビ名はやすしによく思われたいと、現場のスタッフが提案した物といわれる)。 (はの弟子である)もダウンタウンと似たような理由で酷評されたが、紳助はそれに対し「師匠、違います。 馬に例えれば『やすきよ』の漫才はダービー馬みたいなものです。 ボクらはどんなに頑張っても師匠のようなダービー馬にはなれません。 だからボクらは師匠とは違う種目の障害レースの競走馬で一等を狙っているんです」と伝えたという。 それを聞いたやすしは「わかった」と一言残し、後日やすしから「お前らは障害馬でお前らなりに頑張れ」と言葉を受け、ジャケットをプレゼントされたという。 やすしの訃報時、挿話として語り残している。 『』に講師役として出演した際も生徒役のに「こんなしょうもないコンビ名、聞くに及ばん! 」などと怒鳴り散らしていた。 この時、同じく生徒役のダウンタウンは「僕がダウンで彼がタウンです」と慌てて名前を分割し難を逃れた。 また、松本は『』でをしており、この中でやすしの逝去1ヶ月前に『やすしがセスナ機「月光号」から転落死する』という内容のコントを放送していたためマスコミが遺族との不仲説を書きたてたが、松本は「そんなんに乗ったら負けや」と無視を決め込んだ。 死後このコントシリーズは打ち切りとなった。 また、松本は「やすしさんはダウンタウンの漫才を『チンピラの立ち話』と批判したが、自分はそれで客が受け入れてくれるならそれでいいと思っている」と、やすしとの笑い(漫才)に対するスタンスの違いを挙げている。 他にもやもネタ見せ番組でやすしに激怒された経験があり、松尾は「やすしに番組で怒られた人間は売れたが、ほめられた人間で売れた人間を見たことがない」と著書で述べている。 さんまのタレントとしての素質を見抜いたのもやすしである。 やすしはの企画「落語家の成人式」で、当日がテレビデビューだったさんまと共演。 さんまがネタを披露してスタジオを爆笑させるが、さんまはCM中にに怒られてしまう(このことがきっかけで藤本はさんまのほか、演芸の審査で叱責したダウンタウン等、吉本興業所属の一部のお笑い芸人より強い批判を受けている。 詳しくは藤本の項を参照)。 しかし、番組終了後、やすしはさんまのネタを気に入った模様で、後日、やすしの家にさんまを招待し、やすしが吉本興業側にさんまを売り出すよう推薦した逸話がある。 また、さんまの師匠であるもこれを絶賛している。 漫才ブーム当初、やすしはたけしのことを「東京で一番面白い若手」と評しており、たけしを気に入っていた。 たけしの友人であるとの出会いも、やすしと洋七が仕事場が一緒の時にやすしがたけしに紹介したからである。 漫才ブーム後もやすしはたけしとは親交がある一方、でたけしがを引き連れてに押しかけ暴行を働いた件に関してやすしは、師匠が私生活上の問題に弟子を巻き込んだことを問題視し「抗議なら独りで行くべきだった」と苦言を呈している。 また、やすしの訃報を聞いたたけしは前述どおり、やすしを「雲の上にいるような人だった」と評した。 また、やすしの最後の弟子であるは一時期に在籍した時期があった。 タモリとは『』の司会を共に務めた経験があるほか、『』のテレフォンショッキングにやすしが出演するなどしている。 1980年代から言われるようになったタモリ、たけし、さんま(1980年代前半前ではさんまではなく)のの中で、やすしとタモリの共演が最も少ない。 久米とやすしは同い年で、『TVスクランブル』にやすしを起用したのは久米の意向で、インタビューでは「やすきよの漫才がとてつもなく面白かった」とし、漫才「同級生」でうれしそうに髪をいじられるやすしの姿を見て「あの才能に惚れた。 人を笑わせることに命をかけてる」と起用理由を語っている。 木村政雄は後に、「酒を飲んで仕事をするようになったのは、久米さんと仕事をするようになって以降で、久米さんに精神的に飲まれないようにするためだった」という意味の発言をしている。 洋七は で、を代表するコンビになる以前の大阪吉本時代 東京の漫才協団に入ったのは1979年 から面識があり、やすしの弟子である(団順一)ともコンビを組んでいたこともある。 やすしは洋七に対して「お前の声は聞きやすい。 速く喋っても耳に届く。 テンポを上げた方がお客は笑うで。 」とアドバイスをしており、洋七は「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と語っている。 東京進出後も洋七とは番組で共演するなど関係があり、前述の友人であるビートたけしとの出会いにも関わっている。 師匠に暴言 ノックら横山会(エンタツ以来の横山姓の一門会)がのテレビ出演を見ていた時、ノックらは「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」と語っていたところ、やすしが激怒し、「誰や! 今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは? 」と怒鳴りだし、なだめようとしたノックに対して「お前か! このハゲ! ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ! 」と暴言を吐き、巷間でも語り継がれた。 やすしがダイマルを尊敬していたからであるが、ノックの失言であったこともあり、破門は免れた。 親友の間柄でもあり、木久扇が会長を務める「全国ラーメン党」の副会長兼大阪支部長に任命されたことがあったほか、やすきよ漫才独演会にもゲストで出演することもあった。 受け継がれる芸風とモノマネ 生前からやすしのをしていたが有名。 生前のやすし本人からも公認されていた。 モノマネ歴の年数はやすしの芸歴年数を上回った。 明石家さんまも番組内で「横山三兄弟」に扮し、やすしのモノマネをすることがある。 ダウンタウンの松本人志は番組内で「やすしくん」というコントを行っていた。 趣味・特技など [ ] 競艇選手の夢 コンビ別れを繰り返していた1970年頃、一度芸能界引退を考え、ライフワークとなるモーターボート()を始める。 以前にプロのレースを見て、これなら自分にもできると思ったことがあり、小柄で軽量な自分にはぴったりだと考えてプロのも考え、のにあった研修所にて受験をした。 しかし視力が低かった(視力は0. 1に過ぎず、合格基準である1. 0には遠く及ばなかった)ため不合格になり、父にも反対された。 のちにから特別にアマチュアボート選手のライセンスを交付され、自らボートを買ってアマチュアのレースに出場するようになった(28号)。 レースの前にはビール以外は口にしなかったという。 全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝したが、当時に向けて「病気療養中」と会見していたやすしの、だった(元常務取締役)に対する非難があったという。 友人の野中和夫は「舞台なら1回300円くらいだが、競艇なら1着になれば6000円にもなるんだぞ! 」と口説かれ、夢を託されて学校に通わされ競艇選手になると、後に界で多くの記録を打ちたてて、「モンスター」と言う異名を取った。 娘のひかりも「競艇選手になれ」と勧められ、当時のやまと競艇学校(後の、現・ボートレーサー養成所)で競艇選手の試験を受けようとしたが、同じく視力が低かった為に断念した。 と 競艇以外の造詣で健脚の持ち主でもあった。 当時住んでいた堺市の自宅からうめだ花月までの道のりを走っていた。 また、きよしや周囲の芸人によると、野球など団体競技などはあまり好まなかったという。 ポリシーなど [ ]• 酒好きである一方、煙草嫌いでも有名であり、楽屋で煙草を吸っている芸人や、飲みに行った先でも近くで吸っている人がいれば取り上げ、足で消して「吸うな! 」と一喝したと言う。 しかし、その喫煙者が前もって「吸ってもいいか? 」と聞けば、「構へんよ」と言っていた(横山ひとしの著書による)。 代表的な主演映画『唐獅子株式会社』では、が以前やすしとタバコの件でもめたために出演不可となっている。 (原作者・の著書による)。 自宅で数人と酒席を開いた時、先に帰って行く人間を極度に嫌った。 中でも自分より若い人間が腕時計を見た瞬間を目撃すると、その腕時計を取り上げて鍋の中に入れて故障させ、使い物にならなくしてしまったとされる「 恐怖の時計鍋」と言われていた伝説があった。 その伝説は死後、追悼特番などで明らかにされた。 電話魔としても知られる。 特に、弟子であるのひろしは、一本立ちしてからも電話魔ぶりに悩まされたといい、「どこにおるんじゃ! ボケ」の一言で呼び出されたり、電話口で「はいそうですね」と応じていると「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか!? 」と突如逆上されたりしたという。 やすしもいたずら電話をされた経験があり、同様に電話魔で有名な後輩のが、芸人仲間の集まる深夜のスナックからやすしの自宅へ電話し「明日のの始発の時間を教えて下さい」と電話すると、「誰や! 横山と知っての狼藉かコラ!!! 」と激怒したこともある。 その他 [ ]• サインは「人生右肩上がりになるように」と、右肩上がりに書いていた。 松竹芸能系の劇場である新世界新花月の楽屋へ遊びに行った際、泥酔していたやすしはそのまま新花月の舞台に上がり、唖然とした観客はやすしに対し「吉本に怒られるぞ」とたしなめたことがあった。 演じた俳優 [ ] 生涯は何度か化、舞台化されている。 テレビドラマ• - 『 俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ! - 『 ・航跡』()・『 横山やすしフルスロットル・阿波鳴門純愛物語』()(いずれも(当初はが父を演じることになっていたが降板した)=アマチュア選手としてのやすしを描く。 関西ローカルで放送。 きよし役=、妻役=。 () - 『 』(、系)• きよし役=西川忠志。 - 『 ひとつ星の恋〜天才漫才師 横山やすしと妻〜』(・、)• きよし役=()、妻役=、長女(木村ひかり)役= ラジオドラマ• - 『 帰ってきた男、横山やすしリターンズ』(、『』)• - 『 横山やすし十三回忌追悼ウィーク』( - 、)• の部『 横山やすし物語』でヒロがやすしに扮する。 - 『 オヨヨ!! 三枝誕生物語』( - 、なんばグランド花月)• きよし役=。 矢野勝也(矢野・兵動) - 『 』12月公演「 日本全国、テレビで遊ぼ」(2012年 - 、なんばグランド花月)• きよし役=西川忠志。 パロディー [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2020年2月)• - 漫才師(の変装)• - の多くのシリーズで、阿畑やすしという関西弁をしゃべるキャラクターが登場する。 また、相方のきよしから取った阿畑きよしというキャラクターも、作品によっては登場する。 『』(サクセスモード搭載第1作目)から出演はしているが、横山やすしとは全作品を通して関西弁を話すこと以外は全く類似点がない。 性格も基本的には穏やかで明らかに横山やすしを意図したキャラクターではない。 また、『』にて阿畑きよしというキャラクターが登場するが、これは阿畑やすしが主人公の1年先輩である為に急遽同級生の類似キャラクターとして作られた。 この「きよし」という名前を決める時点では確かに「やすしきよし」の意図はあったと伺えるが、それ以降の作品も含めて全体的にパロディーと呼べるほどの内容は全く無い。 吉本新喜劇にて浅香あき恵が横山やすしの動態模写をして「怒るでしかし」と言い、周りから「ちょっとちょっと、オッサンになってるで」と窘められた所を「オッサン違う、今はヤッサンや!」と言う持ちネタがある。 著書 [ ]• 『まいど!横山です ど根性漫才記』 ブック館、1976年。 〈〉、1981年 - を使っていない本人の執筆。 小林信彦は「そのために読みにくいが異様な迫力が生れる(送りがなは原文ママ)」(『天才伝説 横山やすし』序章)と評している。 徳間文庫版の解説は、。 『かまし一発 競艇人生』 浪速社、1970年。 関係人物 [ ]• 佐藤正弥編著『データ・バンク にっぽん人』現代書林、1982年、173頁。 113-116「天才少年漫才師『堺伸スケ』」、pp. 305-309「型破り漫才『やす・きよ』登場」、pp. 310-313「栄光と挫折」• 古川嘉一郎「横山やすし 夢のなごり」より。 東京スポーツ 月亭可朝「ヤンチャ人生とやばい話」17 平成22年12月2日• 吉田豪『新・人間コク国宝』p. 80(コアマガジン、2010年)• 横山ひとし『師匠』ぶんか社、1996年。 リアルライブ 2013年11月27日. 2018年5月13日閲覧。 松尾貴史『業界用語のウソ知識』(小学館文庫) 参考文献 [ ]• 『横山やすし 夢のなごり 〜やっさんが逝って大阪おもろなくなったわ〜』 - ・()• 『師匠』 - ().

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赤塚不二夫に横山やすし…「アルコール依存症」の悲しき末路(SmartFLASH)

横山やすし

数多くの臓器のなかで、なぜこうも肝臓だけがアルコールと密接に関係しているといわれるのか? 酒の飲み過ぎが原因でで悲しい末路をたどった、4人の有名人の事例に学ぼう。 以下で紹介する4人は、酒がもとで体を壊したり、社会的信用を失ったりした。 肝臓専門医の浅部伸一医師は、「皆さん、いずれもアルコール依存症だった可能性が大きいと思います」と語る。 肝臓を壊し入院しても、退院するとまた飲み始めるという悪循環を繰り返した。 2008年8月2日死去(享年72)。 「晩年、急性硬膜下血腫で入院したとのこと。 血を固める凝固因子は肝臓で作られるので、肝臓が悪くなると、頭を打った程度でも血が止まらなくなるんです」(浅部医師、以下同)。 2009年10月3日に死去(享年56)後、血中からアルコールが検出され、酒と睡眠薬を飲んだ結果の急性心筋梗塞の可能性が指摘された。 「睡眠薬を処方された原因はアルコール依存症が考えられます。 酒を飲んで就寝後に体調が急変し、帰らぬ人に。 2014年7月3日死去(享年47)。 アルコール性肝硬変を患い、腹水が溜まって緊急入院したこともあるが、じつは「水割り2杯でベロベロになっていた」との証言もある。 1996年1月21日死去(享年51)。 「もともと、酒に強い体質ではなかったんだと思います。 医師の立場なら、絶対に酒をやめさせる状態ですが、彼に忠告できる人はいなかったのでしょうね」 4人のエピソードから、「もしかしたら自分も依存症では……」という不安を抱える人も多いかもしれない。 アルコール依存症の専門医である久里浜医療センター院長の樋口進医師が、WHOの基準をもとにアルコール依存症の自己診断基準を解説してくれた。 以下で紹介しよう。 ・仕事中も頭から酒のことが離れず、飲みたいという強い欲求がある ・これくらいで酒をやめようと思っても、やめられず、飲酒のコントロールがきかない ・酒が切れると手が震えたり、幻覚が見えたりするなどの禁断症状(離脱症状)が出る ・たくさん飲まなければ酔えなくなってしまっており、以前の酒の量では満足できなくなっている ・飲酒が生活の中心になり、酒のために本来の生活を犠牲にしてしまう。 また、二日酔いから回復するまでに一日以上かかる ・肝臓が悪くなっている、家庭内で不和が起きているなど、酒を飲むことでなんらかの問題が生じているにもかかわらず、飲酒を続ける これらのうち3項目以上が1カ月以上、同時に生じていたか、あるいは1カ月未満でも、過去12カ月以内に繰り返し同時に生じた場合、アルコール依存症と診断される。 あさべしんいち 『酒好き医師が教える最高の飲み方』などを監修 (週刊FLASH 2020年6月16日号).

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